【ブログ・梅原清美】46歳からのスタートライン
こんにちは。マキノ祭典・葬祭部ディレクターの梅原清美(うめはら きよみ)です。
昨年、45歳のときにマキノ祭典に入社し、いまは葬祭部のディレクターとして、主に、通夜や告別式など、セレモニーの現場を任されています。
今回は、マキノ祭典にたどり着くまでの私の歩みを、少しお話しさせていただけたらと思います。
紆余曲折の人生でしたが、いま、ここで、一生懸命にお葬式の仕事に向き合えることに、とても感謝しています。
夢を追って大阪から東京へ
私は1978年、大阪の富田林(とんだばやし)という町で生まれました。
高校を卒業したあと、進学や就職という道も考えましたが、心にあったのは「東京に行きたい」という思い。
なぜなら、声優になりたかったからです。
中学生のとき、たまたま見たとあるアニメに心を奪われました。
主演を務めていた林原めぐみさんの声に感動して、そして彼女のラジオを聴いて、すっかりとりこになりました。「私もこんなふうに誰かの心に響く声を届けたい」と思ったのです。
卒業後、迷わず上京。声優の専門学校に入学しました。
声優の世界へ —— でも現実は甘くなく
専門学校での1年間は、とても刺激的な時間でした。
アフレコの練習、発声や滑舌の基礎、演技のレッスン……毎日が新しい発見の連続でした。
その後、ご縁があって映像系の事務所に所属することになります。
ただ、いわゆる「声優一本」というよりは、映像作品の役者や再現VTRの仕事が中心に。
事務所の電話番を兼ねながら、20年ほど、現場に呼んでいただいては撮影に通う日々を送りました。
役者や声優の世界はとても厳しく、収入も安定せず、辛い面もありました。それでも自ら選んだ道ですし、何より大好きな世界だったので、どんなに大変でも楽しかったんです。
突然の転機 —— 事務所の倒産
けれど、時代は少しずつ変わっていきました。
私はよく、情報番組などでよく見る再現VTRのお仕事をいただいていたのですが、当時のテレビ業界のトレンドの変化もあり、従来のようなお仕事がなかなか巡ってこなくなりました。
そんな中でコロナ禍となってしまい、芸能界は業界全体が窮地に立たされ、私が長年お世話になっていた事務所も倒産。正直、頭が真っ白になりました。
他の事務所への移籍という選択肢もありましたが、とても信頼していたマネージャーさんだったので「この方がいないのに、別の事務所に行く」という考えは、私の中にはありませんでした。
その後は、パートのお仕事をしながら生活をつなぐ毎日。「生活ができれば、パートでも正社員でも構わない」そういう気持ちで、地道に働いていました。
40代の就職活動は簡単じゃなかった
でも、やはり安定した仕事に就きたいという気持ちがふくらみます。
「正社員になりたい」と思って就職活動をはじめたのですが、これが本当に大変で。
40代を超えての転職は、思っていた以上に厳しい世界でした。何十社と応募してもダメなことも多く、「この年齢では、もう雇ってもらえないのかな……」と、正直弱気になることもありました。
そんな中でご縁をいただいたのが、マキノ祭典でした。
こんな私のどこが良かったのか、いまだによく分かっていないのですが、マキノ祭典は面接でも本当に丁寧に話を聞いてくださいましたし、対応もとても早かった。何より驚いたのは、40代でもチャンスをくれたこと、そんな私を受け入れてくれたこと。
「こんな私でも雇っていただけるの?」という思いと同時に、その懐の深さ、大きさにものすごく感謝しています。
いま思うこと
声優や役者は「好きで選んだ道」でした。つらくても楽しい、そういう世界でした。
社員として働くいまの仕事は、正直「生活のため」であり、私の中では全然違うスタートラインでした。
でも、実際に働いてみて気づかされるのは、生活のための仕事の中にも、喜びややりがいがあふれているということです。
マキノ祭典に入ってからは覚えることも多く、葬儀という世界の奥深さに、毎日驚かされっぱなしです。簡単に「やりがい」と言えるほど甘い仕事ではないと思っています。
それでも、ようやく少しずつ手応えを感じられるようになってきましたし、まだまだ経験不足の私を支えてくれる社員のみなさんに助けられています。
マキノ祭典の「懐の広さ」に救われた私が、今度は誰かのお力になれるよう、毎日、ご遺族の方々に向き合う、そんな日々を過ごしています。
次回は、入社後の奮闘記をお届けする予定です。ここまでお読みいただき、ありがとうございました!