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【ブログ・利根川純】赤羽生まれ、練馬育ちの私の半生 | の葬儀・区民葬・家族葬ならマキノ祭典・株式会社まきの

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【ブログ・利根川純】赤羽生まれ、練馬育ちの私の半生

2025.02.21

こんにちは。マキノ祭典で、統括部門長(営業部門、葬祭部門)を務める利根川純と申します。(画像左)

私は決して順風満帆な人生を歩んできたわけではありませんが、マキノ祭典に拾ってもらいまもなく20年。今では約100名に及ぶ部下や後輩たちをまとめる立場に就かせていただいております。

この記事では、私を育てて下さった練馬の方々への感謝を込めて、赤羽で生まれた私がどうして練馬の葬儀社に入社して今に至るのか、2回に分けてお届けいたします。

「純」に込められた期待と葛藤

1982年8月15日、日本大学板橋病院に、高らかな産声が響き渡りました。

利根川弘と明子は、第一子である私に「純」という名前を授けました。「純粋な子であるように」「純真な心を持ってくれるように」そんな親心が込められています。

両親は、一人っ子である私にたくさんの愛情を注ぎ、熱心な教育を施しました。小学・中学時代は塾に通い、勉強に励んだ結果、偏差値72という成績を収めることができました。

しかし、学業に力を入れる一方で、当時の私は周囲との関わり方があまり得意ではなく、内申点には苦労しました。そのため、もう少し上を目指せたかもしれませんが、最終的には、いわゆる”普通”の高校に進学することになりました。

高校に入ると、自由な時間が増えたこともあり、学校の勉強から少しずつ気持ちが離れていきました。友人たちとの時間が楽しくなり、学校生活よりもそちらに比重を置くようになったのです。

結果として、入学時には280人中7位だった成績も、卒業時には下から数えた方が早い順位に。今振り返ると、もう少し勉強にも力を入れられたのではないかと思いますが、当時は「目の前の楽しさ」を優先していたのかもしれません。

大学に進学してからも、学内の雰囲気が自分には合わず、アルバイトや遊びに時間を費やすことが多くなり、結果として、1年生を終えた時点で単位はゼロ。そのまま大学を中退します。

「純粋な子に」「純真な心を」という両親の期待に応えられず、それでも私は何をどうすればよいのか分からず、自室にこもってダラダラと過ごす日々でした。暗く長い迷走期を振り返ると、今でも胸が痛みます。

マキノ祭典とのご縁

まもなく地元の赤羽駅近くにあるゲームセンターでアルバイトを始めました。

特にこれといった目標を持つことなく、日々淡々と勤めて約2年半。「ちゃんと高校で勉強して、そのまま大学に行ってたら、もうすぐ就職の時期だな」と思っていたタイミングで、店長から社員登用の話をいただきました。

しかしその時の私は「何かが違う」と感じ、ありがたい話を断ってしまったのです。将来のビジョンが描けていないくせに、自分が歩むべき道ではないと直感していたのでしょう。

それから王子のハローワークに通い出します。いまでも忘れることのできない担当の方が、親身に企業を探してくれて、まもなく紹介してくれたのが、マキノ祭典でした。

2006年4月28日、上石神井にあるマキノ祭典本社の応接室。私の前に座る社長の牧野と、幹部社員のAさん(いまは退社されています)が、適性を測るためにさまざまな質問を投げかけてきます。決して褒められるものではないこれまでの歩み、深い考えなどなかった入社動機、経験すらしたことのない葬儀に対する考えを、私なりの言葉で伝えました。

面接を終え、特に手応えを感じないままに西武新宿線・上石神井駅のホームで急行電車を待っている時、携帯電話が振動しました。声の主は面接官のAさんでした。

「いつから来れる?」

まさかの展開に驚き、こうして、マキノ祭典でのキャリアが始まったのです。

どうして合格となったのか、その決め手はいまだに分かりません。しいて心当たりを挙げるなら、質問に対して目を見てはっきりと答えたこと、分からないことに関しては素直に「分からない」と伝えたこと、遺体に対してそこまで怖さがなかったこと、これくらいです。

がむしゃらに働いた20代

5月1日、初入社の日。はじめてマキノ祭典の事務所に足を踏み入れます。自動ドアが開いてまず私を襲ったのが、タバコのヤニの匂い、そしてヤニで染まったまっ黄色の壁面でした。

当時はまだ昭和期質な人が多く、暇を持て余していたのか、机に足を乗せて『ヤンマガ』を読んでいたひとりの先輩が「おー、よろしくな」と、声をかけてくれたのを強烈に覚えています。

20代の頃は、いろいろな面で鍛えられ、社会のさまざまな厳しさを教わりました。

深夜の出勤も当たり前、休みが取れずに29連勤ということもありました(その内の10回は宿直)。特殊な現場に急ぎ向かうこともあれば、大きな祭壇を短時間で設営しなければならないのが当たり前の時代でした。

とにかくがむしゃらに走り、這い続けた20代。たくさん失敗し、ミスも犯し、クレームを頂きもしましたが、苛酷な環境に揉まれる中で、これまでふしだらな生活をくり返してきた私にも、社会人としての自覚のようなものが芽生えました。「立派な葬祭ディレクターになり、お客様に喜んで頂ける仕事をしたい」という想いが、自発的に湧いてきたのです。

親の期待に応えられず、自分に自信を持てずにいた私を育てて下さったのは、間違いなく、一人ひとりのお客様やマキノ祭典の仲間を含めた、練馬の方々です。そのおかげさまで、いまでは両親も、おそらく私のことを安心して見てくれているのではないでしょうか。

私自身も、そして会社全体も、お客様のための改革改善の歩みを止めず、これからも「赤羽生まれ、練馬育ちの利根川純」として、感謝の心を持って日々の仕事に勤めて参ります。

後編では、マキノ祭典に入社してからの歩みや、マキノ祭典のホワイト企業化への挑戦について、お話ししたいと思います。